Delusion is not a solution.

これは、奇跡講座に登場する言葉を少しアレンジしたものです。

ちなみに、元の言葉は、こうです。

Dissociation is not a solution; it is a delusion.
解離とは解決ではなく、妄想である。(公認訳)T-8.V.1:2

奇跡講座のこの個所では、これは、「(神の子であるという)自分の身元から分離して平安でいられるだろうか? 解離とは解決ではなく妄想である」という流れで登場しています。

そして、人の問題のほとんどは、「解決不能」感に対する葛藤に対処しきれず、妄想の中に入り込むことによって、解決した「かのごとき状況」を作り出そうとする、というところにあるようです。

詳しくは本文に譲りますが、「妄想」という言葉を正しく捉えていくと、そこから人間の現状に関する様々な知見を見出すことができます。

さて、例えば「妄想」とか、あるいは有名なものでは「意識」とかもそうですが、こうした言葉は、元々の意味に加えて西洋文化や学問用語の訳語として用いられていて、現代では主として後者の意味で使われます。

そして、ここで例に挙げた「妄想」も「意識」も、元は仏教用語です。

仏教用語としての「妄想」は、仏典漢訳の中で次第に発達してきた用語で、最初期には例えば、「相の滅」という意味で「妄想」という用法も見られるようですし、また、「法(ダルマ)に対する慢心」という意味で用いられたこともあるようです。

「妄想」が、通常は「分別」と訳される vikalpa の訳語としてほぼ定まったのは、禅の伝統の中でのようですが、これは今でいう「考えるな、感じろ」にかなり似通った感覚で用いられたこともあるようです。

例えば、「風が動くか旗が動くか」を言い争っている僧たちに対して、禅僧が「衆生の妄想心が動くのだ」と答えたり、とかですね。

ま、確かにこのままだと、「風が動くか旗が動くか」には決着がつきそうになく、これはいわゆるディベートっぽさを感じるので、たしなめたくなるのもわかるような気もしなくはないですが。

いずれにせよ、「妄想」という言葉は、禅において極めて重要な概念だったようで、その意味としては「誤った想念」「真実ならざるものを想念すること」といった用いられ方になるようです。

(ここまでの概観は、「妄想の一考察」、佐々木容道、という論文を参照しました)

さて、ここで興味深いのは、この意味合いは、精神医学で用いられる「妄想」と共通性がある、ということです。

例えば、精神医学での妄想の中に「罪業妄想」というものがあります。

これは、明らかに根拠のない罪悪感を抱き続けることに関する症状名ですが、奇跡講座の観点からすると、これ、まんま「真実ならざるものを想念すること」なわけですよ。

それはおいおい明らかにするとして、まずは、精神医学における「妄想」の定義を見てみましょう。

ストレスとこころ-こころもメンテしよう ~若者を支えるメンタルヘルスサイト~ (mhlw.go.jp)

ここでは、「妄想とは、ほかの人にとってはあり得ないと思えることを確信してしまうことです。周りが違うと説得しても受け入れられません。」と書かれています。

また、

妄想 – 脳科学辞典 (neuroinf.jp)

ここでは、「妄想とは明らかな反証があっても確信が保持される、誤った揺るぎない信念である。」と書かれていますが、これも先のサイトとほぼ同じ意味です。

つまり、「周りが「それは違う」と、いくら本人を説得しても、本人は頑として、そのこと、つまり、「自分は間違っている」ということ、を認めようとしない」というような感じですね。

実はここに、一般的に思われている「妄想」と、精神医学における「妄想」との、明らかな違いが描かれています。

それは、精神医学における「妄想」には、「本人ではなく他人にとってどうなのか」という暗黙の大前提がある、ということです。

これは言い換えると、「本人にとっては、それは必ずしも妄想ではない」ということを同時に含んでいます。

だからこそ、いくら周囲の人が説得しようとしても無理なわけですよ。

もし、本人にとってもそれが妄想だという認識があったとしたら、説得するまでもなく、ちょっと指摘したらそれで納得して終わります。

ここで念のために付記しますと、「「それは妄想だ」という認識がある」ということと、「実際にもそれは妄想である」ということとは、実は同じではありません。

つまり、両者の間には「差異」がある、ということになりますが、このことに関しては稿を改めて詳述します。

話を戻しますと、しかし、周囲の人から見ると明らかに妄想でも、もし、本人にとってはそれは妄想ではなく「現実」だと感じられているとしたら、んなもん、強引に説得しようとしたら逆効果でしかありませんね。

なぜならば、それは本人にとっては、自分の「現実認識」が頭ごなしに否定される、という体験となるからです。

こうしたことが、精神医学における「妄想」の定義、およびそこから敷衍されることです。

ここでも念のために付記しますと、「周囲の人から見ると明らかに妄想である」ことは、「実際に妄想である」ということを直ちに意味するわけではありません。

そして、仏教的な用法では、この「誰にとって」という観点は、どうやらあまり明確ではないようです。

さて、こうしたこととは別に、「妄想」という言葉は一般的にも使われます。

ですが、一般的に「妄想」と表現する場合には、これは、本人自身がそれを妄想だとしている場合が多いようです。

つまり、一般的に言う「妄想」には、「他の人はともかく自分自身にとって」という暗黙の大前提がある、ということになります。

ここまでを整理しますと、以下のようになっている、ということが言えるかもしれません。

・仏教における「妄想」は、「誰にとって」ということは特に明示されていない。

・精神医学における「妄想」は、「本人ではなく他人にとって」という基準がある。

・一般的に言う「妄想」は、「他の人はともかく自分自身にとって」という感覚から表現されている。

さて、ですから、冒頭に戻りますと、「解決不能」感という認知的不協和に直面した時、人は、自分にとって何らかの「都合のいい」観点を見出すことによって、認知的不協和ならぬ「認知的協和」の状態を作り出そうとするわけですが、その「自分にとって都合がいい」観点というのは、そもそも他者との接点を持たないため、うっかりすると次第に「現実離れ」していくわけですよ。

さて、ここで「都合がいい」という言葉をあえて用いましたが、これは「よいまとまり」という意味では、ドイツ語の「ゲシュタルト(Gestalt)」に相当します。

つまり、「個人的な心」というゲシュタルト形成の過程に関する記述となっています。

「都合」という言葉は、「総計」「まとまり」という意味でもありますからね。

ですから、よく、「それはお前にとって都合がいいだけだろうが」みたいな揶揄もありますが、あれは、感情的にはともかく、論理的には「まんま」な表現だというわけです。

なぜならば、「それはお前にとって都合がいいだけだろうが」という言葉を、「高次元的」に「翻訳」すると、以下のようになっているからです。

「その知覚はたしかに、「あなた」という質点から構成されたゲシュタルトに基づいてはいるが、「あなた」にとっての他人、つまり「あなたのあなた」における観点からは、その知覚は必ずしも妥当しない」

ま、それはともかく、「妄想」という言葉に関して、ざっと述べてみました。

最後に一つ、重要な指摘をしておきます。

それは、精神医学における「妄想」の定義は、「ある想念に関して、その想念を保持している本人ではなく他人にとって、その想念は間違っていると感じられ、しかも、他人が本人に指摘しても、本人はそのことを認めようとしない」ということになりますが、これ、全部逆になっている場合もある、ということです。

例えばですが、カラスは黒いにもかかわらず、なぜか周囲の人がそろいもそろって、「カラスは白い」と信じていたとしますと、その中でただ一人、「いや、カラスは実は黒いんだ」と言おうものなら、周囲の人から寄ってたかって、「それは間違っている」と指摘されますね。

そして、もちろんですが本人は決して自分の「間違い」を認めようとしませんね。

つまり、もし、「カラスは白い」ということを大半の人が信じて疑わない世界があったとしたら、その世界では、「カラスは黒い」というのは「妄想」だということになるわけですよ。

ちなみに、ここまでの定義は、妄想という認識が成立する構造に着目したものであり、例えば「カラスは白い・黒い」というような、いわば想念の内容に関する定義としては、例えば「罪業妄想」「関係妄想」といったものになりますが、これもまた、そうした想念を「妄想だ」とする根拠は、途中経過はいろいろあっても、結局はあれですよ、「JK (常識的に考えて)」というところに行き着いてしまうわけですよ。

では、例えば自分の「罪深さ」に関する「「リアルな」実感」は、果たして妄想なのか。

精神医学の「一筋縄ではいかなさ」には、例えばですが、こうしたことが絡んでいます。

そしてもう一つは、ここまでの記述ではあまりはっきりしませんが、妄想とは、実は、意外に「ありふれて」いるわけです。

ただ、普段はそんなことはいちいち気になりませんが、それは、普段の意識状態では、不安などに蓋をすることができているからです。

そのことによって、フロイトの言う「前意識」という段階が生じているのかもしれませんが。

前意識(ゼンイシキ)とは? 意味や使い方 – コトバンク (kotobank.jp)

フロイトも、そして奇跡講座もまた、「無意識の意識化」という取り組みの姿勢は共通していますが、奇跡講座の場合には、意識化のプロセスは、個人的無意識を超えて集合的あるいは普遍的無意識の領域まで到達します。

(ただし、奇跡講座の元の筆記ノートには、「潜在意識(無意識)」や「超意識」ということへの言及もあったようです)

序文はここまでにして、では、本文をお楽しみください。

2024.08.18 記す

Last updated at 2024.09.02